第20回 街あるき(第二音戸大橋を歩いて)レポート

2ヶ月ぶり、お久しぶりのレポートです!

2023年5月21日(日)は「第20回 街あるき」でした。
今回は、いつも通り呉の歴史を学びつつ、コース内に第二音戸大橋を歩くという、実にユニークな要素が組み込まていいます。
さて、どんな「街あるき」になるのやら♪

当日は呉駅に集合し、バスに乗って鍋桟橋前で下車。実に、馴染み深い鍋桟橋!


「KUREP」編集長、実は鍋生まれ、鍋育ちなのです。
街あるきスト、竹本哲朗さんの資料と説明によりますと、その昔は、鍋桟橋の周辺は午後から夜遅くまで、バナナの叩き売り、ガマの油売り、綿菓子、冷し飴、古本屋、様々な露店が出て、とても賑やかだったとか。

昭和初期の鍋は、下駄屋、薪炭屋、提灯屋、玉突屋、助産婦さん、芸者の置屋、綿打替屋、チンドン屋など、約350軒の店が軒を連ねており、生活必需品は町内の店で揃えることができたそうです。なるほど、なるほど。
今は見る影もない高齢化の著しい地域ですが、「KUREP」編集長が幼少期や小学生だった頃も、ちいさなお店が軒を連ねており、それなりに賑やかな商店街通りでした。

警固屋の住民の大部分は海軍工廠の従業員で、小学校のクラスの親の職業の9割が海軍工廠勤務だったそう。ふむふむ、その名残というか、その跡地にできた「日新製鋼」勤めの方が、ご近所にもとても多かったです。

そして、すぐそばにある「重巡洋艦青葉終焉の碑」に手を合わせます。

「重巡洋艦青葉」は、第一次ソロモン海戦<1942(昭和17)年88日~9日>にて、大勝利に貢献した武功艦です。修理のために呉海軍工廠近くの警固屋5丁目の岸壁に繋留されていましたが、資材不足で修理できないまま放置されいたところ、1945(昭和20)728日に4発の爆弾が命中し、大破着底しました。
「KUREP」編集長の今は亡き父(昭和13年生まれ。鍋生まれ鍋育ち)から、「沖に大きな船が沈んどった。その船に皆が登ったりして遊び場になっとって、海に飛び込んだりしよったわ」と話していた事が思い浮かびます。
あぁ、あれは「青葉」の事だったんだ!!!! 今更ですが、生きているうちにもっと話を聞いておけば良かった・・・
ちなみに、碑文は海軍主計中尉として「青葉」に乗艦していた中曽根康弘元首相が書いたものです。

さらに歩くと、こんな階段を発見!警固屋バイパスに繋がる階段なのです。

おおお、「警固屋ドック」がこんな角度から見えますよ。
道路からだと、ドックの中は見ることができませんので、ここを歩くからこそ見えるレアな風景ですね。トンネルの中も歩きましたよ〜。
車を運転している人から見たら、トンネルの中を嬉々として歩く謎の集団だったかもしれません(汗)
ずんずん歩いて進みます。
今日は第二音戸大橋だって、歩いちゃうのです!

橋の上から見る景色。
青緑の海、行き交う船、日本製鉄(株)瀬戸内製鉄所呉地区(旧日鉄日新製鋼)も一望できます。
わ〜〜〜い、絶景かな、絶景かな〜〜!

橋の上でしばし写真撮影タイム。こういう景色を見ると、呉に生まれて良かったなぁ〜としみじみ思います。市外から来られた参加者さんも「呉っていいなぁ」と思ってくれたはずですよね。
高所恐怖症以外の方はのぞきます(笑)

音戸町に向けて階段を下ります。地元の方も、この階段をわざわざ歩く人はいないのでは、と思うところを歩くのも、ディープな街あるきならでは。

順覚寺への石段を見たり、音戸銀座街を歩いたり。音戸銀座街は戸田本店の裏の旧商店街です。
その中に、北辻呉服店の隣のお宅の2階にうだつのある家があります。
「うだつ」とは、2階の両端に設けた防火壁(火事を防ぐ壁の事)で、江戸時代から明治にかけてお金持ちの人が家を建てる時、この「うだつ」を設けたそうです。
どこにあるのか、チェックしてみてくださいね。「法専寺」の石垣。まるでお城のような見事な造りです。
石垣は「忍び返し」がついており、いざという時、城として使おうとしたのではないかと言われています。


「法専寺」は、毛利元就の一番下の子、元為(後に出家して僧法専)が1547(天文16)年に建てたお寺です。境内から望む音戸大橋も、音戸らしい風景ですね。

お腹も空いていい感じ!みなさんお待ちかねの「天仁庵」に到着で〜す。


「天仁庵」は、音戸大橋のたもとの旧道で130年代々続いた数田呉服店を、おしゃれに改装してできたおランチと雑貨のお店です。地元の魚や無農薬の野菜を使ったメニューが評判で、遠方から来るお客さんもたくさんいるので、週末は予約がおすすめですよ。
この日は、お肉かお魚が選べるプレートランチに+アルファしていただきました。ご馳走様でした。

「天仁庵」 〒737-1202 広島県呉市音戸町引地1-2-2
電話 0823-52-2228
営業時間 10:30 – 18:00 店休日 毎週木曜日

ランチの後は「天仁庵」の店長、音戸生まれの数田さんに案内してもらい、さらに音戸を「街あるき」します。
音戸は明治の初めから昭和のはじめにかけて「潮待ち」の港町として賑わいました。
とらや旅館横から城谷本店の手前まで「石畳」が残っています。城谷本店(江戸時代に両替商として、浅野藩の藩札を扱っていた商家で「城みちる」の実家)から法専寺まで「石畳坂」があったのですが、お年寄りが歩く時に危ないのため、ツルツルの道にしたそうです。全部残っていれば長崎のオランダ坂の様に有名になっていたかもしれません(竹本さん談)

音戸にはその昔「音戸遊廓」があり、音戸町鰯浜の通りから、北側へ入ったところが遊廓の入口でした。音戸は昔から関西における六大港の一つであったため、昔から遊女が居ましたが、1905(明治38)年には、貸座敷8軒、娼妓85人の規模の遊郭があったそうです。

音戸遊廓の南端に、開廓記念碑もあります。明治406月開廓、台座には遊廓開設者の名前が刻まれています。現在、当時の面影を残した建物は残っていませんが「潮待ち」「風待ち」をする船と人が行き交い、さまざまなドラマがあったのでしょうね。

「音戸町旧道なつかし通り」。舟坂小路、瓦壁小路、町家、古き良き雰囲気が味わえます。「潮待ち」でたくさんのお金が動いたため、大きく派手な銀行が建てられた中でも、ひときわ目立つピンクの洋館は「呉銀行音戸支店」でした。

今は普通のお家ですが、昔お風呂やさんだった頃の名残を発見!
ふらりと何気なく歩く街の中で、由緒のあるもの、懐かしいもの、不思議なものを発見する喜び。
賑やかだった頃の音戸の歴史、底力は、今もそこかしこに残っていました。

ガイドブックには載っていない道やスポットを訪ね歩き、本日も無事にランチ付きの「街あるき」終了です。
帰りは清盛塚からバスにのって、呉駅へ。
「今回もいろいろ発見があった」「知らないことがたくさんあった」と喜んでいただきました。
皆さん、お疲れ様でした〜。

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