第24回「街あるき」(阿賀を歩きましょう)レポート

24回目の「呉街あるき」は、2023年11月19日(日)「阿賀」を歩 きました。
安芸阿賀駅に集合し、ワクワクの阿賀町を探検する「街あるき」出発で〜す!

少し歩くと、国道沿いで良く目にする建物「芸南病院」に着きました。

1939(昭和14)年建設の木造2階建ての建築で、明治から大正にかけて活躍した建築家 和田順顕氏が設計。
外観は少し手直ししていますが、基本の構造や外部の仕上げは当時のままです。
日本郵船横浜支社、慶應義塾大学北里記念医学図書館、横浜鶴屋、風月堂 横浜などモダンな設計で活躍していた建築家のデザインが「阿賀にも残っている!」と思うと、じわじわ感動が湧き上がります。

阿賀の神田神社にあった鳥居。平成13年(2001年)芸予地震で被害にあったそうで、これもよく車で通る国道沿いにあります。
車だと一瞬で通り過ぎてしまいますが、歩きながらゆっくり見ると、発見がありますね。

この鳥居のすぐ横には「神立」と書かれた石柱があります。
「神立」(カンダチ)と読み、この付近から土器、石器、獣骨などが出土しているとか。
また、神功皇后が立ち寄ったことから「神達」と言う地名になり、「神立」となったそうです。

なんと〜!阿賀には旧石器時代の約2万年前からの歴史があったのかも・・・と思うと、ぐっと奥深い背景がに驚きます。

石柱を前にして熱心に説明する竹本さん

石柱を前にして熱心に説明する竹本さん

神田神社にも立ち寄ります。
神田神社の森は、市街地としては珍しく自然の状態で樹々が残り、ヤマビワ、カンザブロウノキ等、貴重な樹木を見ることができます。

神田神社の境内の絵馬は、呉市の「有形文化財」です。60点以上の絵馬が飾られており、神田神社に奉納されたもののほとんどは、江戸時代中期以降のもので、江戸時代に神社で行われた歌舞伎の様子や当時の風俗や生活が描かれています。

阿賀では、ところどころで旧町名を記した石柱を見ることができます。地元の人が歴史を残そうとした足跡を辿ることで、愛着というか、土地への親しみが生まれますね。

「中町」の石柱。この一帯は海浜を埋め立て、寛永年間(1624 ~ 1644)の頃から、ここを「胡町」と呼び、1830(天保元)年の頃からは「中町」と呼ばれるようになったそう。

街歩きは続きます。旧道に入ると、昔ながらの町屋の雰囲気が漂う通りがあります。

その中でも一際目立つ瀟洒な建物が「馬場医院」です。1918(大正7)年に建てられた鉄筋コンクリート造りの2階建ての建物です。105年以上経過した鉄筋造りは、呉市はもとより、広島県内でも現存するのが貴重な建築物でしょう。

木造がほとんどだった時代に、当時、いかに資金が潤沢かつ、最先端の建築法を取り入れていたのかを物語ります。細部まで凝っている屋根や窓のデザインや曲線、装飾なども、建築好きにはたまらないかも〜。

颯爽と歩く竹本さんの後をついて、「称名寺」へ向かう階段をのぼります。
竹本さん曰く「ここが今回の見どころですよ!」というスポットへ。

じ、実は長年、私は阿賀に居を構えています。しかし、「称名寺」を訪ねるのは初めてです(汗)
そして、そこには驚きの建築物がありました!!!

「わぁ〜〜〜〜〜」思わず声が出ました。

おとぎ話にできてそうな、不思議な曲線で構成された「鐘撞き堂」が姿を現しました。斬新なデザインに目を奪われます。

2019(令和元)年7月に建設された比較的新しいもの。多くの受賞歴を持つ大西・百田ご夫妻が鍾乳洞をイメージして設計しました。

ガウディの建築にも通じるような、自然の中にとけこみ、悠久の歴史を刻んでいく素晴らしいデザインですね。
実際の建築作業においては呉工業高等専門学校の生徒もお手伝いしたそう。

「街あるき」は続きます。細道を通り抜け、墓地の横を歩き、はじめて歩くほぼ地元の人しか歩かない道。
海や橋が見える、見晴らしの良い場所も通ります。
やっぱり海がみえると安心しますね。

山の中腹にある「延崎神社」。
延崎は「海に突き出た奥に広がる土地」、というのが地名の由来です。江戸時代中頃、港を中心にした東部の「東延崎」と、農耕を主とした西部の「西延崎」に分かれました。

今は休校になっている「延崎小学校」。
1929(昭和4)年6月に開校し、2001(平成13)年3月 閉校しました。一時は多くの児童が通っていた学校も、近年は少子化でどんどん休校や廃校になっています。

さらに進むと道は下になり、漁港が見えてきました。
潮風と海の匂いがします。さっきまで、山の上を歩いていたのになぁ〜〜。
絶好の「街あるき」日和、漁船をみながら、潮の香りで深呼吸しましょう。

阿賀の漁港では、「漕船艇庫」と書かれた看板を発見!
古くから天下に知られた大祭「宮島管弦祭」で御座船を曳く、お漕船(とんてことん)の船が保存されているのです。

阿賀の「とんてことん」お漕船(呉市無形文化財)の謂れは、1701(元禄14)年617日、暴風が起こって管弦祭の御座船が遭難していたところへ、江波と阿賀の漁民とが協力して救助しました。この活躍により、毎年、阿賀と江波とから船を出して宮島管弦祭で御座船を曳くのが、お漕船(とんてことん)です。

お漕船の乗り手たちが、出立前に安全祈願を行う「延崎住吉神社」。
旧暦65日の夜半、阿賀港で2艘の船を旋回させ、宮島の厳島神社に向います。勇壮で歴史あるこの行事は、「宮島管弦祭」で名誉ある大役を担う阿賀の漁師の誇りでもあります。

そろそろ「街あるき」も後半に差し掛かってきました。
橋の上から、阿賀の海へとまっすぐにつながる風景をパチリ。

豊栄新開に向かい、公園内にある石碑の説明をうけます。
豊栄新開の埋立に貢献した人々の名前を記した記念碑は、1871(明治4)年に建てられました。

そもそも「新開」というのは埋め立てのことで、海を埋め立てた土地です。
阿賀は1671(寛永11)年に新開5反の新開を開発し、「豊栄新開」は1854(安政元)年に37町歩を開きました。

普段、見過ごしてしまいがちな石碑や石像、石柱などには、苦労して街を発展させた方のおかげがあっての「今」なのだ、とあらためて思いました。

最後は「松尾明神」に立ち寄りました。
賀茂郡黒瀬村城主の娘お松が水害で亡くなり、お松の霊を弔うために明神様を建てて祀りました。
現在は「松尾神社」と呼ばれ、河川支配・海上守護・漁獲保護の神が祀られています。

わ〜、今回も約5.3キロを歩いて、新発見をしながら神社やお寺、町の細道を探検しました。

参加者の皆さんは、リピーターさん、初めての方、呉市内、呉市外、今回は東京からも!
「呉に住んでいるけれど、知らないことばっかりでした」「呉は良い街ですねぇ〜」「こんなディープな街歩きははじめて!」とそれぞれに楽しい声が上がりましたよ。

また、今回は”あしたの日本を創る協会”の 情報誌、「まちむら」の取材陣が同行しました。
「地域づくりに取り組む人たち」ということで、有難いことに、私たち「くれ・ひと・まち情報応援団」の活動を取り上げて下さるとのこと。どんな風に記事になるのか、とても楽しみです♪

次回「街あるき」は2024年1月21日(日)の予定です。

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