第11回街あるき〜和庄を歩きましょう

2022年5月22日(日)、快晴なり!
今回も「第11回街あるき」に参加し、和庄を歩きました。
呉の中心部からほど近く、住宅地として住んでいる人も多い地区ですが、街あるきストの竹本哲朗さんが、またまた面白いウォーキングコースを組み立ててくれました。

海軍墓地、寺本公園、寺迫公園、和庄本町、法輪寺、念仏坂、亀山神社など、回るスポットを詳しく調べ、どんな道を歩いて行くのか丹念にコースを設計。
普段でも、車で通ったり馴染みのある場所ですが、歩いてみると色々な発見があるのです!
竹本さんの作ったオリジナル資料を手にして、さぁ出発〜!

休山新道を横目に見つつ、長迫道を通って海軍墓地(長迫公園)に到着。海軍墓地は、1890(明治23)年に海軍軍人の戦没者・殉職者等の埋葬地として設置されました。

墓地には、戦前に建立された個人墓地が157基、英国水兵碑1、「戦艦大和戦死者之碑」、「戦艦扶桑戦歿社慰霊碑」、「軍艦矢矧殉職者之碑」、「伊三六三潜殉職者之碑」、「「第六潜水艇殉難之碑」など91基の合祀碑が並び、全国からたくさんの人が参拝に訪れます。

竹本さんの説明を聞きながら、かつて命をかけて日本を守って下さった方々のことを思い、手を合わせました。

途中、「あれ!ここを歩くのですか?」という小道や坂を登るのも、街歩きの楽しみです。住宅街の隙間を縫って、竹本さんが丁寧に下調べをしている道を歩きます。
桜の季節に大人気のスポット「寺本公園」を歩き、「寺迫公園」の北側、堀ヶ迫城と杉迫城があったのではないかと推察される場所へ。
「え??呉にお城があったのですか?」と驚きましたが、お城というよりも見張り所のような簡易な物で、「藝藩通誌」に記載があるものの、あまり詳しいことは分かっていないのだそう。公園にある段々になっている石垣がその時の名残を感じさせてくれます。
ふ〜む、まだまだ呉は知らないことばかりです・・・。
それから「宮原谷」と呼ばれる場所に向かいました。
ほとんどの方は「何のこっちゃ?」と思われる場所ですが、呉市の重要な水路を作った荘山田村の熊崎氏の本家になる宮原氏が住んでいたとされるところです。
呉市の歴史に興味のない人にとっては、なんて事のない住宅地ですが、竹本さんから「上井手」「下井手」のことを何度か聞いていたので、「ここが宮原家三代目、熊崎新左衛門氏に縁のある場所なのか〜」と得心しました。
*きっとここにお住まいの方も知らない歴史かもしれませんね〜!
さらに上を目指して歩き「呉和庄高野山法輪寺」に着きました。ここにお寺があるのも知りませんでしたし、竹本さんの後をついて来なかったらたどり着いていなかったかも。
そして「街あるき」のお楽しみ、ナイスビューに癒されます。
山の上の上まで、ぎっしりと家が建てられた街、呉。その先に海とクレーンが見えます。呉らしい風景ですね〜。

景色を堪能していたら、たまたま法輪寺の住職さんにお会いでき、中に入れていただくことになりました。「呉空襲の時はこのお寺の少し下まで火が迫り、近隣の住民が避難してきた」というお話を聞いたり、メンバーのFさんが急に真言宗のお経を読みはじめ(笑)、全員で手を合わせました。突然の訪問にもかかわらず、気持ちよく迎え入れていただき、本当に有難うございました。

法輪寺を後にして、歩きます。結構な山の上なのに、さらにここから上に登る階段を発見!!両城の200階段もびっくりの急坂です!
「あああ〜、これって図書館付近から山の上を眺めた時、山の一番上にあるお家だ!」と長年の謎がよくやく解決しました。
車も入らない急な細道。山と家の境界がきわきわで、ここに普段の生活があることに感心しきり。呉の地形は本当に面白いです。
ここから下って、竹本さんが家の隙間をかい潜りながら、複雑な小道をスイスイと歩きます。細い道まで知り尽くしている名ガイドに拍手👏

念仏坂、此彼堂下へ向かいます。ここは和庄の防空壕一帯の土地を所有していた城憲太郎氏(199483歳没)が敷地内で多くの方(550人ほど)が犠牲になった事に心を痛め、1987(昭和62)年に完成させた御堂です。
よく車で通る道、和庄小学校からすぐそばにあるのですが、この御堂の存在を知らない人も多いです。
「え〜!こんな所にある御堂があるなんて初めて知りました!」という参加者もちらほら。呉に空襲があったこと、たくさんの命が尽きたこと、それを悼んで建てられた御堂があること、私たちは知らなければいけないこと、伝えるべきことが沢山あります・・・。
亀山神社にも立ち寄りました。
狛犬の台座を新しく据え替えたのですが、以前の呉空襲の砲弾の後が残った古い台座も一緒に並べられ、戦争の事実を後世に伝えます。

竹本さんの案内は続き、亀山神社の少し下にある「淡水・清水小学校跡地」へ。1889年(明治22年)に呉鎮守府が開庁しましたが、呉には海軍士官が満足するような学校はありませんでした。海軍の軍人・文官のほとんどが東京から家族を伴って赴任し、呉市の小学校に入学したが言語風俗等の粗野、学校設備の不完全さから私設の学校の創立の準備が始まりました。そして、1890年(明治23年)8月31日に、軍政会議所附属舎を高等官・判任官の子弟の校舎として設立されたのが「淡水学校」です。高い教育水準と優秀な頭脳が呉には集まっていました。
本日も良く歩きました。初めて参加した方は「こんな呉の歩き方があるとは!知らない事ばかりで驚きました」と喜んでいましたよ。

じっくり歩いてみると、私たちの街は、あの道にも、この石垣にも、あの石碑にも、良くも悪くも海軍と戦争の記憶がそこかしこに残っているのだなぁ・・・と思わずにはいられません。
その記憶の断片を拾い集めながら、呉という街が背負って来たこと、歩んできたことを、これからも「街あるき」で学びたいと思います。
実際に歩いたり、経験して見る事で、深く心に落ちていく学びがありますよ〜。

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