吉浦〜川原石を「まち歩き」

11月23日、「第7回まち歩き」(吉浦・川原石コース)を歩いてきました。
吉浦駅から吉浦遊廓の跡(吉浦新町)、油送管の跡、日本製鋼所若葉クラブ、旧第11海軍航空廠兵器部発着兵器工場、俊山荘跡(金谷別荘)、良い子橋、第四川原石橋梁、平田商会(化粧品・日用雑貨・卸)、かもめ橋、宝町アンダーなど、約30箇所のスポットを巡る総距離6.5キロのコースです。
今回は呉市内の方が多いにも関わらず、「”吉浦駅”に降りたのは初めて!」という方もチラホラおり、呉の街を知ってもらう、歩いてもらうためには、改めて「まち歩き」は良いきっかけになりますね。
竹本さんが毎回地理や歴史について詳しく調べてくれる「竹本資料」を手にして、出発です!

吉浦港を歩いて、「日本で初めての日本人による造船所」を作った白峯駿馬顕彰碑と海上自衛隊呉造修補給所貯油所が見えるスポットへ。中に入ることは出来ませんが、かつて海軍の燃料集積地として作られ、現在も呉造修補給所貯油所として、陸・海・空3自衛隊の燃料基地になっています。踏切に近くには、このような看板もありました。
吉浦にも、いまだに旧海軍の名残があちこち残っています。

この油送管は、太平洋戦争中に吉浦乙廻の海軍貯油所から呉海軍工廠と広の海軍軍需部広重油荷役場(広多賀谷=虹村)まで引かれたそうです。今や古ぼけた鉄管でしかなかったものが、こうして説明を受けながら実物を見ると、その当時にこの油送管を長距離で繋げることの経緯や技術を思って感じ入るものがあります。


呉で遊廓といえば朝日町が有名ですが、吉浦にも「遊廓」がありました。
それまで近海漁業の根拠地だった吉浦港は、1907(明治40)年軍港規則の改正により、県外便の船が寄港して賑わいました。
昭和13年には、吉浦に妓楼11軒、娼妓153名と、同じ年の朝日遊郭は妓楼46軒、娼妓726名だったという記録があります。

テクテク。歩いてみた日本製鋼所若葉クラブ、海上保安大学校は、防空砲台があったこと、旧海軍工廠火工部だったことなどを知りました。
竹本さんの颯爽とした歩きについて行く参加者。
この階段は、竹本さんが段数を数えてコースに組み込んでいます。階段を上ると「大麗女島(おおうるめじま)」が見えました。
大麗女島は、戦時中は監視所や燃料庫が置かれ、地下工場では特殊潜航艇蛟竜 (潜水艦)が作られていました。現在は海上自衛隊の弾薬庫があり、一般には上陸できません。
戦前はこちらに海軍の家族専用の海水浴場がありました(「沖縄県民斯く戦ヘリ」より)。
テクテク住宅街を通り抜けて、見えたのがこの景色!
海と船、クレーンが見える、呉らしい景色です。この角度から見たのは初めてです。
「竹本資料」によりますと、眼下に見える工場は、かつては、旧第11海軍航空廠兵器部発着兵器工場で、戦艦大和のカタパルトを製造していました。
能天気に喜んでいましたが、見える景色全てに海軍という歴史が立ちはだかってくるのでした。

さらに進むと、素晴らしい豪邸と石垣のお宅が見えてきました。
その左隣の敷地に、建物は解体されて今は見る事はできませんが、俊山荘跡(金谷別荘)がありました。戦艦扶桑分隊長を務めた大正天皇の第三皇子「高松宮」が呉で赴任している時に住んでいたそうです。
宮様ですか〜〜。どうりで立派!(敷地と石垣が)
そのほかにも、和洋折衷の古いお家や蔵のあるお家なども残っていました。
この地域は、お金持ちの良い家が住んでいたのでしょうね。
そして発見!
この橋、呉市民ならほぼ知っている、見ている橋です。
呉方面から入る魚見山トンネルの入り口に見える橋には、なんと名前があったんですよ!
みなさん、知ってました???

「良い子橋」という、なんとも可愛らしい名前があるんですよ〜❣️

国道31号線の開通により、港町小学校分校児童の通学用専用橋として1948(昭和23)年に完成。1959(昭和34)年に鋼鉄橋に架けかえ、1962(昭和37)年に港町小学校の分校が廃止になってからも、地域住民が利用する大切な橋として利用されています。

小学校に通う児童のための橋。全員「良い子」で頑張ってね!という、当時名付けてくれた人の気持ちに微笑んでしまいますね〜。

それから、呉線目隠し(トタン)板の支柱。当時、呉線の中から港を見えないように目隠しがされ、その時に使用した支柱です。
1937(昭和12年6月)、呉線の新宮トンネルの入口から港町小学校の間、855Mにトタン板の塀を作る工事が行われました。
崩されたものがほとんどで、残っているのは数箇所だそうです。

「本当にトタンで目隠しするような事があったんだ」。。。
竹本さんの説明がなかったら、見上げることもなく単なる古いコンクリにも、リアルなストーリーが湧き上がりました。
川原石駅近くにある、謎の小さいトンネル(第四川原石橋梁)。
地域に住んでいる人には、通ったことのある懐かしいトンネルかもしれませんが、どこかの物語に出てきそうな雰囲気ですね。
ワクワクする細い道を通って、川原石商店街や 「沖縄県民斯く戦ヘリ」で著名な大田中将一家が住んていた 靜觀邸(せいかんてい)4回のまち歩きのリンクあり  、軒下の壁が黒く塗られている高松邸、モダンな建築の国木邸(旧呉物産商会)と平田商事なども見学。川原石には帝国ホテル旧本館に使われていたスクラッチタイルや丸窓、ラウンド形式など意匠をこらした建物が残っており、その当時としては、随分と贅沢でモダンだった事が伺い知れます。

いよいよまち歩きも終盤です。
かもめ橋を渡ってすぐに見えるこの建物は、「旧第十一海軍航空廠補給部」の倉庫だったそうです。
こちらも中に入る事が出来ませんが、呉には大きな工場があちこちにあるのには、ほぼ旧海軍が絡むんでいたという背景があるようです。

呉中央桟橋を過ぎると、ここにも吉浦から繋がる油送管が見えました。

呉線の下を通る、通称宝町アンダーは1931(昭和11)年に完成。
現在は雨が降るとすぐに冠水し、大きなトラックが年に何回は突っ込む厄介なところですが、
海軍構内に運ぶ軍需品や乗組員の乗艦送等で使われ、大勢の人がここを通り、生活をし、戦争に向かいました。

今回も、吉浦〜呉駅を歩き通り、長いようで短い2時間ちょっとのまち歩きになりました。

私的には、生まれも育ちも呉ですが、小さい頃から「海が近いようで遠い」という感覚がありました。それが、旧海軍が海岸部分の多くを使用しており、秘匿部分が多かった。そして戦後もその名残で払い受けた工場や施設が今も残っているから、一般に入りにくい場所が多い。すなわち「海が近いようで遠い」という理由が何となく分かりました。

竹本さんの説明と資料を見ながら「まち歩き」をしなければ、じっくり見ないところ、気づかなかった事がたくさんあり、参加者のみなさんも「呉の魅力を再発見」できた1日になったのではないでしょうか。

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