第28回 「呉の街あるき」(二河の平地を歩こう )レポート

2023年4月21日(日)は、「第28回 呉の街あるき」(二河の平地を歩こう)に参加しました。

なんと、今回は初めて傘を持っての参加でした。これまで27回開催した街あるきは、一度も雨が降ったことがなく幸運だったのですが(笑)
霧雨のような小雨だったり、傘を時々差したりたたんだり、という天候もまた乙な感じでした。

これまでは、アップダウンのある呉の地形をあえて楽しむコースでしたが、今回は膝や足に負担のない、二河のほぼ平地を歩くコースを設定しました。
呉の地形と細い路地、そして歴史に詳しい”街あるきスト”竹本哲朗さんは、どんなコースでも設計して案内できるスペシャリストですからね〜!

呉市役所前にある「KUREP+」に集合。
さっそく呉市の体育館前にある「呉文聰先生頌徳碑」に立ち止まります。
黒御影の本磨きの碑、皆さんも見たことのある方はたくさんいるでしょうが、わざわざ立ち止まって説明を受けるチャンスは、なかなかありませんよね。

「呉文聰(くれ あやとし)」氏は、1851年生まれの統計学者で、日本の統計学の父とも呼ばれる偉人です。第1回国勢調査を実現に導いた功績は、日本の発展に大いに寄与しました。
「そんなすごい人の石碑がどうして体育館の前に?」と思いますよね。
そもそも、呉文聰氏のお父さんにあたる山田黄石(呉黄石)氏が、広島藩医の名医で呉に住み、「山田」姓を「呉」姓に替えるほど思いれがありました。しかも「呉」家は優秀な家系で、日本近現代史を切り拓いた人物を輩出しているのです。
呉黄石氏のひ孫にあたる呉文炳(くれふみあき)氏は、日本を代表する経済学者で、呉市の名誉市民の第一号になっています。

*「呉氏」については、説明が長くなるので割愛します。詳しい話を聞きたい方は、「街あるき」にご参加ください(笑)

とにかく、日本を牽引してきた立派な家系である「呉氏」と「呉市」にご縁があり、この石碑が建てられました。

青くて四角いキャラクターの「呉氏」ではなく、これまでの日本のために貢献した「呉氏」が呉にいたことやご縁が深かったことを、街あるきでは学んでいます。

続いて、同じ呉市体育館の敷地内にある大きな石碑。そう、エディオンをバックにして見える石碑は、「宮原幸三郎頌徳碑」です。
宮原幸三郎氏は、1863年生まれの明治から昭和前期にかけて活躍した実業家であり、政治家です。呉市助役に就任、呉市市会議員等を歴任しました。
また、旧軍港都市転換法案推進議員連盟会長を務め、海軍工廠年金支給法案の成立に尽力しました。
軍需産業都市だった呉が敗戦により、街が焼き払われ、財政的にも危機に陥ったときに、呉市が生き残るための転換策を講じるために中心的な役割を果たしていました。
なんとまぁ、ここそこに残る呉の歴史の熱さ、凄さ、奮闘した人物に驚きます。

そして、皆さん〜〜!
この銅像がどこにあるのか、パッと思いつく方いますか?
私、この銅像の隣の学校のPTAだったのですが・・・なんとなく見たことはある銅像ですが、あらためて知ることができました。
クレアラインの入口のすぐそば、呉中央学園の隣にあるんですよ。

「勝田登一碑」、1875年に呉市(荘山田村)に生まれ、呉市議会議員、広島県会議員などを歴任し、1927(昭和2)年呉市長に就任。3町合併(吉浦、阿賀、警固屋)を果たしました。1915(大正4)年には呉第一銀行頭取に就任し、呉の発展や経済に大きく貢献しました。
1939(昭和14)年に胸像が建立され、戦時中は金属の供出ため台座だけになりましたが、1961(昭和36)年に再建。それだけ、勝田登一氏の人望があったと言われています。

ちなみに、勝田登一のお孫さんになる仲代恭子(やすこ)さんは、女優、演出家、脚本家として広く活躍し、俳優の仲代達矢氏と結婚しました。
市役所前から二河川を渡るまでの、ほんの近距離でもたくさんの学びがありました。
近距離で平地のため、まったく疲れないまま発見がありました。
そして、三条通り方面へ。

立派な邸宅が見えます。
こちらは、旧山内萬寿治邸(現;三宅家邸)です。
1902(明治35)年頃に建てられ、海軍少将、初代の呉工廠長、第七代 呉鎮守府司令長官、貴族院議員などをつとめた山内萬寿治の別邸として建てられました。中を見ることはできませんが、風格のある明治時代の建築様式を遠目から眺めることができます。
(注)現在は私邸のため、許可なく侵入や撮影した場合、警察への通報案件になります。

 三条通りの少し奥まったところにある「鯛の宮神社」。
漁業の神、七福神のえびすさんを祭り、豊漁祈願のために建てられました。
今回は平地コースのため、階段を上りませんでしたが、境内には、第六潜水艇殉難之碑があります。
1911年(明治45年)山口県新湊沖で訓練中に第六潜水艇が沈没、殉職した佐久間艇長以下13名の慰霊ために建立され、毎年4月15日には、海上自衛隊や関係者が参列して、第六潜水艇殉難追悼式が厳かに行われています。

第六潜水艇殉難第112回追悼式の様子 ⏬

https://kurep.com/2021/04/16/0415/

こちらは、小さくて可愛らしい「愛宕神社(あたごじんじゃ)」。

人々が災いにかからぬよう、火難・水難を防ぎ護国・鎮火の神様です。
口伝によると、慶長年間(15961615)に三津田地区に鎮座。その後、再建、移転を経て明治の初め頃、現在の地に遷座したそうです。

歩いていると、こんな煉瓦塀を見つけたり。
街のあちこちに、赤煉瓦や急階段、細い細い道などが、日常の風景として残っています。

両城階段住宅と100階段。
下から眺めるだけでもクラクラします。これが毎日の生活だと思うと、足腰が鍛えられますね。毎回私たちの「街あるき」では竹本さんのオリジナル資料があるのですが、実際に竹本さんは上まで歩いて「階段は第一保育園の段数は曲がる所まで61段、更に61段、頂上まで25段で147段」など、詳しく記載されています。

マニアにはたまらない風景?!

映画「海猿」のロケ地でも有名な「200階段」。
これは、登ると本当にきついです。途中で休まないと一気にはあがれません。
そして、200階段ではなく、正確には232段なんですよ!

そもそも、この急な階段は、学校に通う子どもを思って作られた階段なのだそう。
両城小学校が本校と分教場と分れていたとき、子どもたちが七曲りを回る以外に道がなく、大回りして非常に不便だったため、原山直兵衛氏が土地を寄付してできた階段で、石段を上がった左側に原山さんの墓地があります。

途中、手動式の水ポンプも見つけましたよ。
こういう発見ができるのも「街あるき」ならでは。
押すと、ちゃんと水が出ます。


海にむかって、三条通りの端まできました。

「大歳神社」の鳥居と階段。
普通は神社の名前が書かれていますが、この鳥居には所在地である「城山」と刻まれ、江戸時代の「藝藩通史」によると有崎城があったことがうかがえます。

さらに、ここを登っていくと、金比羅山公園があり、正岡子規の句碑があります。

句碑には、「呉港 大船や 波あたゝかに 鴎浮く」(子規)書かれています。
正岡子規が呉に来たのは、従軍記者として旗艦「まつしま」に乗り込む古島先輩を見送るためだったそうです。
なんと、宇品港からはるばる「呉=宇品通い」の手漕ぎ船に乗り、4時間以上、ギイギイと櫓をきしませながら川原石港へやって来たと、彼の日記に残っています。
当時の様子や思い、背景を思うと、いろいろと感慨深いですね。

「かもめ橋」を歩いていると、茶色くて古い油運管に気付きます。
この油送管は、太平洋戦争中に吉浦乙廻の海軍貯油所から呉海軍工廠と広の海軍軍需部広重油荷役場(広多賀谷=虹村)まで引かれ、1937(昭和12)年に完成しました。

ちなみに、以前「街あるき」では、吉浦から油送管を辿って歩いたコースもありますよ。

「第7回まち歩き」(吉浦・川原石コース)リンクあり

さらに海に向かって進むと、「二河川公園」へ着きました。
恥ずかしながら、初めて行きましたが、ここにこんな綺麗な公園がだったんだ〜〜!と驚きました。

呉湾がばっちり見えるナイスビューポイントです。
霧雨で薄く煙るタンカーや呉湾が見えるもの、本日の雨のおかげ。
呉らしい良さを、あらためて感じいる眺めでした。

この「二河川公園」には、カキガラのついた大きな岩でできた築山や、岩で囲んだ池があります。
そこに「稜威池之記」と書いた、花崗岩で出来た大きな古い石碑があります。
難しそうな漢文で書かれているのですが、ざっくり言いますと・・
この公園は、海軍工廠を作る際に、大きな艦船の出入りの障害となっていた巨石を取り除いたものを利用してできた、ということです。1904(明治37)年10月に完成しました。

皆さんも、この絶景公園には、一度は足を運んでほしいです。

かもめ橋の付近は大きな倉庫があります。
この地域は、かつて呉軍需部(呉市宝町)第二区とよばれたところです。
「旧第十一海軍航空廠補給部」の倉庫があり、大砲、魚雷から燃料、食物に至るまで軍需品の準備、保管、供給が行われていまいした。
現在の敷地は、日立製作所が使用いています。

雨の中の「街あるき」、傘を差して駅に向かって歩いて解散です。
今回は平地コースをゆっくり歩きましたが、竹本さんのガイドのおかげで、やはり知らないこと、見どころなどがあり、呉の街の深さを堪能しました。
いや〜、何度参加しても面白い!!

次回は2024年5月19日(日)、第29回 「呉街あるき」(上井手を逆に歩こう)です。
以前歩いた「上井手」を違う方面から歩きます。

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