第13回まち歩き(長浜まで歩こう)レポート

2022年9月25日、秋晴れで心地よい行楽日和に「第13回まち歩き」を開催し、広長浜地区を歩きました。

旧第十一海軍航空廠、入江神社、専徳寺、住蓮寺、宇都宮黙霖、石泉文庫、戦争花嫁第1号チェリー・パーカー、パピリオソースなどなど、言葉の羅列だけで胸も頭もいっぱいですが、本当に「まち歩き」に参加しないと分からない面白さと醍醐味があります。
歴史も言葉も、歩いて現場を見るということでリアルが伴ってくるのです。

地名はもちろん知っていますが、あたらめて歩くことで 「長浜」という街の歴史の深さに、驚きの連続でした!

「長浜里山を愛する会」のメンバーさんに案内役をしていただき、「地元愛」にあふれた説明に参加者も大喜びです。

広駅に集合。跨線橋を渡り、岩樋の水門跡と渕崎山へ。
かつて山城がありましたが、現在城郭の跡ははほぼ皆無。広海軍工廠・第十一海軍航空廠の工員の上水施設として開発されたそうです。
広駅から少し歩くだけで「へぇ〜〜〜」と驚くことしきりです。

広地区には、コトブキ技研工業、中国工業、富田肥料、王子マテリア、中国工業技術研究所、広島メタル&マシナリー、在日米陸軍広弾薬庫など、工場や会社の敷地が大きいことに改めて気づきます。そして、容易に一般人が近づけない雰囲気があります。

それは、この広大な敷地が「第十一海軍航空廠工場跡」だと言うことなんですね。
アニメ映画「この世界の片隅に」を見た方なら思い出していただけると思いますが、周作さんのお父さんが働いていたところです。

1921(大正10)年115日、呉海軍工廠広支廠が開庁。
1923(大正12)年4月1日、広支廠は呉海軍工廠から独立し広海軍工廠となる。
1941(昭和16)年101日、航空機部が「第十一海軍航空廠」として広海軍工廠から独立。「第十一海軍航空廠」は海軍最大の航空機のエンジン開発・製造の拠点になりました。

一大軍事拠点として機能するが故に、激しい空襲を受け、多くの犠牲者が出ました。
何気なく車で通ったりすると、見過ごしてしまいそうになりますが、県道279号線の東側には、1945(昭和20)年5月5日の空襲による米軍機グラマンの弾の跡が残っています。
ちょっと横道に入ると、2階建ての防空壕?事務室のような頑丈な建物がありました。
「第十一海軍航空廠名田螺山(なだつぶやま)地下工場跡」だそう。
米軍機の空襲から工廠を守るために、広周辺の山谷に大規模なコンクリート製の隧道を堀り、旋盤や穿孔機など大量の工作機械を搬入した地下工場を作りました。
うわ〜、暗くて怖い空気が漂い、いまだにこのような建物が知られずに残っているとは・・・
これは地元の人でも気づかない人が多いかも。
*敷地内は、ガイドがない場合の侵入は危険です。

在日米軍陸軍広弾薬庫(秋月弾薬廠)。
1945(昭和20)年、敗戦した日本にアメリカ占領軍が上陸し、駐屯しました。一時撤収を解除されましたが、再撤収され、現在も東広島市の川上弾薬庫などとともに、米軍の極東最大級の秋月弾薬廠(しょう)を形成する施設で、かつての戦争と、現在の戦争との繋がりを彷彿とさせられました・・・

続いて、専徳寺へ。広の中では最も古い寺院で中世室町時代1429(応永27)年に臨済宗仏通寺派嶺宿山専徳院として建てられました。その後、1574(天正2)年浄土真宗本願寺派嶺宿山専徳寺と改められました。
「起(むく)り屋根」という、丸みを帯びた屋根が特徴です。
専徳寺の本堂内では、長浜の貴重な絵巻物を見せていただきました。
身を乗り出して見入る参加者さんたち。
初めて見る資料や話を聞くにつけ「長浜」の歴史の深さに感心していると、時間がすぐに経ってしまいます。

迷路のような細い路地を歩くのも「まち歩き」のお楽しみですよね〜。
そして、呉市の文化財にもなっている「石泉文庫」へ。
賀茂郡川尻村(現;呉市川尻町)の光明寺の住職、僧叡(「宝暦12年」1762年生まれ)を、広村庄屋の多賀谷武兵衛ら有志が学僧として名高い彼のために居宅及び経蔵を寄贈し、衣食住の世話をするからこの地に留まって欲しいと懇願し、長浜へ移住。「石泉塾」を開いて24年間にわたって約110名の門弟の教育にあたり、数多くの著述を残しました。石泉文庫の蔵書は、経典や著述など約2万冊。現在も毎年地元の小学生や有志の手によって虫干しをし、大切に保存活動が続けられていいます。

駆け足で「住蓮寺」に向かいます。
鐘楼門を兼ねた山門が目を引く立派なお寺です。
1590(天正18)年に創建され、宇都宮黙霖生誕の地としても知られています。境内には誕生の碑があり、1976(昭和51)年呉市文化財に指定されました。


宇都宮黙霖は、1824(文政7)年、長浜
生まれ。地域の知的財産である「石泉(せきせん)文庫」にこもって、漢学、国学、仏学を修めましたが、21歳の時に大病を患い、聾唖(ろうあ)となりました。
しかし、国学研究を深めて尊皇倒幕思想を確立し、全国40余国を筆談しながら訪れ、約3千人に及ぶ志士、学者、高僧と尊王論をたたかわせました。
吉田松陰にも大きな影響を与え、安政の大獄で投獄されるなど、激動の人生を送ります。
黙霖は50歳ごろに故郷の長浜に戻り、明治20年代に澤原家(長ノ木町)に迎えられ,明治30(1897)年9月15日、74歳没。

アニメ映画「この世界の片隅に」で、主人公のすずがその前を通るシーンが描かれる澤原家住宅(三ツ蔵)で、黙霖は暮らし、最後を迎えたのです。
う〜〜ん。呉の持つ歴史と文化の繋がりの深さと面白さといったら!
情報や見どころの多さに圧倒されながら、テクテク歩きます。
見えてきたのは、長浜や広の人に愛された「パピリオソース」を製造していた高島本店。お好み焼きのソースと言えば蝶のマークのパピリオソース!
残念ながら現在は製造されていませんが、リンゴ酢が入った甘酸っぱいソースの味を懐かしむ声は、今も聞かれるほどの銘品でした。

ようやく「三角浜」が見えてきました。
第二次世界大戦直後、オーストラリアに移住した戦争花嫁第1号のチェリー・パーカー(日本名・桜元信子)さんが、メルボルン出身のオーストラリア軍人ゴードン・パーカーさんとデートしたのが三角浜です。
当時のオーストラリアは今とは違い、有色人種の移民を排斥する「白豪主義」を掲げていました。国籍や人種の違う愛を貫くのは容易ではなく、結婚するために警察や軍にも厳しく責められましたが、二人の固い思いはやがて白豪主義の政府を動かすまでになり、世論を賑わせました。
そんな熱い物語のきっかけが、広長浜にあったなんて・・・

「三角浜」の側には松本勝太郎氏の石碑がありました。
松本勝太郎:明治後期から昭和期の実業家、政治家、広島県多額納税者。貴族院多額納税者議員、第12代呉市長。呉商工会議所顧問(ウィキペディアより)
そして、息子の松本俊一は外交官・政治家として、松本賢一は実業家、参議院議員、広島県呉市長として活躍しました。

「広村はもともと優良農村として明治の頃から有名じゃったんよ。その中でも長浜は知的水準が高く、この地域から立派な政治家や実業家をたくさん輩出したんよ〜」と、「長浜里山を愛する会」の方が誇らしそうに教えてくれました。
さて、今回の「まち歩き」最後のスポット入江神社に到着しました。
旧称 若宮弁財天、若宮権現、入江の宮、新宮大明神、新宮神社。
毎年113日に開催される「明神祭お供船」という引き舟行事は、海難救助を表した珍しい伝統行事として、呉市の有形文化財になっています。


また敷地内には宝物館があり、見学をさせて頂くことに!
「やぶ」の面や書簡、巻物、一休和尚の掛け軸など、貴重な資料が展示されていました。

いや〜〜、「長浜」は、濃かった!すごかったです!
まだまだ見ていない箇所もあるし、紹介できていないところもあります。
申し込みがすぐに満席になって参加できない方もいらっしゃったので、リベンジ「まち歩き」を開催しなくては。


今回の長浜の街歩きは、「長浜里山を愛する会」の皆さんの自分達が生まれ育った街に誇りを持ち、地元愛にあふれた活動に深く感動した1日でもありました。

皆さん、また「まち歩き」しましょうね〜!

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