第5回「呉のまち歩き」〜宮原上道路探索コース

2021年6月27日(日)に、ようやく第5回の「まち歩き」を開催しました。緊急事態宣言により日程の変更をし、待ちに待ったこの日です。
案内役は、もちろん呉の歴史に明るい竹本哲朗氏。KUREP編集長の私にとっても、馴染み深い宮原エリアの探索です!高校生の頃にほぼ三年間、毎日通っていたエリアに、一体どんな発見があるのでしょうか?

しかし、この日のために、竹本さんが何度も試歩を繰り返し、高低差や道幅の広さ、歩く速度、距離、時間、巡る場所など様々な要素を考え抜いた「宮原上道路探索コース」、さすがの内容でした〜〜。

今回集合は、眼鏡橋(青山クラブ)。ゴールは澎湃館です。

まずは、入船山記念館に移築された「旧東郷住宅離れ」へ。ここはいつでも見られる瀟洒な離れ座敷で、1997(平成9年)国の登録有形文化財に登録されています。

巡るスポットについて、竹本さんが調べたオリジナル資料。

それから、「この世界の片隅に」のすずさんと晴美さんが時限爆弾の爆発に巻きこまれた場所 → 歴史の見える丘へ。
ここには、噫戦艦大和之塔と子規句碑があるのは有名ですが、他にも旧海軍工廠礎石記念塔、造船船渠記念碑、渡辺直己歌碑、澤原為綱翁の像(台座のみ)など、ざまざまないわれのある碑がありました。それらについても、竹本さんが細かく調べれてくれた”(通称)竹本資料”を読みながら歩くと、めちゃくちゃ頭に入って勉強になるのです。
NHK「ブラタモリ」でも紹介された窓のないの家もチェックします。
ここ〜!!通学時にバスの窓から毎日見ていたので、しっかり見覚えのある家です。
それでも何も知らないというのは悲しいもので、当時は単なる「窓のない家」として視界に入っていただけで、1937年(昭和12年)起工~当時は「戦艦大和」の建造が極秘のため、民家は窓を作ることが許されなかった、という史実を知ると・・・私たちの住んでいる街の重い歴史に打ちのめされます・・・
「無知」というのは、とんでもなく大事なものを失っているのだな、と大反省です(涙)

ずんずん「まち歩き」は進みます。
「え〜?こんなところを入るのですか?」という声を聞きながら、竹本さんが猫の歩くような道まで精査して決めたコースです。きっとご近所の方も滅多に歩かないような狭い道を分け入って歩くワクワク感がたまりませ〜ん!


そして、またまた「え??ここはどこ?」と、意外な展開で案内されたのが「東郷平八郎の住居跡」と思われる場所です。宮原の住宅街の分け入った場所に、東郷平八郎氏は明治23年〜24年に住んでおり、大正末に火災で焼け残った住宅の「離れ」が入船山記念館に移築されたのだそうです。

看板もないし、近所の人もおそらく知らないかも。
竹本さんが、様々な資料を照らし合わせ、そうではないか、と推察している所です。
このあたりから、通称「東郷坂」を東郷さんが馬に乗って呉海軍工廠に通っていたのかなぁ〜、と歴史ロマンに思いを馳せ、他にはない場所を訪ね歩けるのも、この「まち歩き」の醍醐味ですね〜。

さらに、宮原上道路に向かいます。 萬願寺下 → 眞光寺前 → 蒲苅橋へ。
宮原なのに、何で「蒲苅橋」なの?と質問してみると、「橋の名前は鎌苅山から命名したそうです。蒲苅橋は実は誤りだ。」とのこと(笑)当時は、役所の人も建設する方も、大らかな時代だったのでしょうね。
*こんな風に呉市内の橋にも、いつの間にか漢字や読み方が変わってしまった橋がいくつかあります。

「蒲苅橋」は海軍工廠が華やかだったころ、三津峰山を越えて大入、延崎から朝5時頃から、ザッザッと足音も勇ましく、沢山の人が歩いて通っていたそう。 今の静けさからは想像もできないほど、働いている人がいたのですね。

宮原のバス通りの上には、さらに「宮原上道路」があり、たくさんの生活がありました。
こうして歩いてみると、車の入らない細くて急な道、日新製鋼の鉄粉で赤茶けた屋根、昭和建築の家がそこかしこに残っているのが発見でき、「ザ・昭和」を心ゆくまで満喫できます。

途中、呉湾が一望できる眺望ポイントが開けました!
建造中の船も、自衛隊の船も全部良く見えます。
素晴らしい〜絶景です!ここ穴場ですね〜〜!

 少々くたびれてきましたが、頑張って歩みを緩めず、八咫烏神社や坪ノ内小学校、延命地蔵にも立ち寄りました。
このお地蔵さんは腫れ物を癒す御利益があるとか、金儲けの御願い以外は何でも聴いてもらえると伝えられ、堂内に湧き出る「はまぐり水」は眼病に効能があり、万病に効く霊水であると言い伝えられています。
鍋峠 を越え、日新製鋼予備品置場(旧忠誠寮跡)、鍋山公園に据えられた「殉国の塔」へと向かいます。
今回は「呉本」の作者丸古玲子さんも「まち歩き」に参加しており、「呉本」に出てくる 「殉国の塔」にもお参りをしましょう、ということでコースに追加しました。

これまで何度となく見ていた倉庫。それにこんな悲しい歴史があったとは。合掌

日新製鋼予備品置場(旧忠誠寮跡)は、1945(昭和20)年6月22日にB29から激しい攻撃を受け、1500名以上にのぼったといわれる犠牲者を荼毘に付した場所と伝えられています。その中には、犠牲になった女子挺身隊の方々476人もおり、慰霊のために「殉国の塔」が敷地内に建てられましたが、もっと多くの人に参拝してもらえるように、と警固屋仏教婦人会の尽力で1965(昭和40)に、今の鍋山公園に移設されました。

そろそろ、ゴールも近くなってきました。
坪ノ内から道を下る途中に、海軍技手養成所跡周辺に、防空監視所跡、工廠神社、トーチカ(コンクリート製の防御陣地)、職工養成所等記念碑など、関心がなければ通り過ぎてしまうよな地味な道ですが、海軍関係の遺構が数多く残っています。


実はKUREP編集長の亡くなった祖父も「技手」の出身で、戦艦大和の建造に携わった人員の一名です。「おじいちゃんは昔たくさん勉強をしたえらい人なんだよ」と聞いていました。しかし、祖父から戦争のことや大和について一切聞くことはなく、秘匿された戦争の事実を少しでも聞いていればなぁあ・・・と今になって切なく思っています。

さぁ、アレイからすこじま公園が見えて、いよいよ「澎湃館」にゴールです。
心配なお天気は薄曇りで持ちこたえ、約2時間、6.2キロのコースを歩きました。

「澎湃館」では、新発売の魚雷ドックをいただき、大之木社長から「日本海戦の裏側」のお話を聞くことが出来ました。いつもいつも海軍魂の琴線に触れる深イイお話に感謝です。
澎湃館の開館を待っていた海自ファンも多く訪れていました。

そして、この日は海上自衛隊幹部学校(戦史統率研究室員)の本名龍児一等海佐も特別ゲストに加わり、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」ガイドブック”船がわかる本”の執筆にまつわる貴重なお話を伺いました。🔺リンクから電子ブックが閲覧できます。
『KUREP+」にも実物の本がありますので、機会があれば手に取ってくださいね!


「生まれ育って知ってる街なのに、実は知らないことだらけ。」「よく見ている風景も、実は別の見方をすると全然別の街みたい〜」、「おもしろかったぁ。次はいつですか〜?」、「私たちの住んでる”呉”って、実はすごくない?!」思わずもれ出す喜びの声!

参加者一同、今回も大大満足の「まち歩き」でした。
案内役の竹本さんの丹念な調べによる魅惑のコースに感謝、感謝です!
そして、今現在で竹本さんが構成している「まち歩き」のコースは、まだあるんです。
どうぞ、またの機会をお楽しみに〜。

呉生まれ、呉育ちでも驚きの発見がいっぱいの「まち歩き」コース。
単なる観光客向けではなく、呉に住んでいる人にも参加して、我がまち呉の魅力を再発見して欲しいと願っています。

*7月、8月は暑いのでまち歩きはお休みです。
その代わり、8月8日に船をチャーターして「亀が首」「三ツ子島」「情島」界隈を、お弁当付きで、のんびり巡るオリジナルクルーズをしようと企画中です。
(注)申し込みには、リスト管理&保険のため「くれ・ひと・まち情報応援団」への登録が必要です。

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